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 時間はけして流動的なものではなく極限的には微分することが可能である、つまりは逐一蓄積されていくものです。
 同時に、自分の中にある自己認識、“自分の存在を実感すること”というものも極めて瞬間的に更新されていくもので、過去=「自分が生きているというそれまでの過程や前提」というのは海馬に保存された情報に過ぎません。
 つまり生きているという実感は、実感したすぐ次の瞬間には記憶という主観混じりのあやふやなものへと変わっていきます。厳密には生きる作業は常に不確定なもので、暫定的に繋がってると決めることしかできません。なぜならば前述したように、生とは最前線のある一点でのみ成立しうるものだからです。
 しかしその最先端でさえもあるいは大脳が想像により補ったものかもしれません。
 眼という感覚受容機構には盲点があります。視細胞により光を興奮したのち、その興奮を大脳まで伝える視神経が存在するためです。
 けれど、私たちは視界に欠如した部分を、つまりは盲点により捉えられていないはずの景色を、その視界のなかには見つけられません。大脳というはっちゃけた複雑な機構が、周囲の景色から判断し、その欠落部分を勝手に補填するためです。
 要するに、その空間は「本来ならば世界のどこにも存在しない空間」であるのです。
 とすると、生きているという認識が唯一可能なある一カ所──正確な意味での現在の一瞬さえも、どこかしらの機構が生み出した勝手な想像かもしれないわけです。
 仮にそうだとすれば、電気信号で喚起させ思い浮かべることしかできない情報である過去は基盤が揺らいでいるうえに、「視覚も触感も聴覚も嗅覚も味覚も何もかも感じることができる無二の絶対的な現実」さえ仮想が生んだ虚像である可能性が芽生えるわけです。
 さてさて。私たちは本当に生きていると断言できるのでしょうか? その反駁さえも虚無的な自我と仮定的な確証に満ちたものかもしれないのに。これに対する反駁さえもまた、あるいは──。


っと、久々に偽証法やらなんやら使ってだらだらと文字を連ねてみました。こういう屁理屈はたいていこのように「相手の反論をあらかじめねじ伏せること」を念頭に作られています。自分の条件が仮定的なものであるのに、たまたま合致する事例を並べたのちに理論として理解を強制させるわけです。まあ思想ともややごっちゃなんで条件つきで当然ですがね。あーなんだか彼の人に色々いわれそー。
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